さて、前編からの続きとなります。
幼少の頃は、小児喘息を患い、体が弱かった吉田拓郎さんですが、中学時代や高校で音楽を始めて、大学時代にデビュー目前まで行きますが、デビューに至りませんでした。
紆余曲折の中、大学生活も終わろうと言う時デビューにこぎ着けました。稼働し始めた吉田拓郎さんは、同じ音楽をやっている、ちょっと気の強い女性、四角佳子さんと出会います。
ある夜の出来事を通して、あの名曲『結婚しようよ』が、フォークソングと言われたカテゴリーに革命を起こします。
しかし、その後、身に降りかかる一大事とは?
吉田拓郎若い頃。『結婚しようよ』はフォーク界の革命的楽曲!
1971年の初夏、四谷の路上でけんかの仲裁をして、巻き込まれボコボコにされた吉田拓郎さんは泣きながら介抱する四角佳子(よすみけいこ)さんを愛おしく思い、心を動かされます。
CBSソニーに移籍して第一弾として発表された『結婚しようよ』は、1972年1月21日シングルとしてリリースされ、大ヒットとなったばかりではなく、その後のニューミュージック、そしてJ-POPへの大きな影響を与えます。
同じ時期、仲の悪かった父が1972年3月に定年退職になる予定で、長年別々に暮らしていた吉田拓郎さんの両親でしたが、やっと一緒に住む予定でした。
父の正廣さんは最後の仕事を終える為、鹿児島県立図書館で寝泊まりをしながら雑務に追われていました。
突然の訃報でした。
発見された時は、ペンを握ったまま脳卒中で亡くなっていたそうです。『結婚しようよ』が発売される11日前の1月10日の出来事で、正廣さんは、息子の大ヒットの知らせを聞くことなく、亡くなってしまいます。
自分が学校に通えなかった事を悔いていたのでしょう。
学歴を重視して厳しく息子に接していた父の意志とは違う方向へ進む息子の吉田拓郎さんを快く思っていませんでしたが、売れっ子になりだすと、密かに息子の載った週刊誌の記事やレコードを購入していたと言います。
そして吉田拓郎さんは『結婚しようよ』の曲の通りに、二人は1972年6月26日、長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で、結婚式を挙げました。押し寄せるマスコミをよそに会場周辺は大変な状況になっていた様です。
結婚すると一カ月後の7月に発表されたアルバム『元気です』はアルバム・チャート第1位を13週独占し、45万枚以上を売り上げます。
当時レコードの売上はシングル盤が殆どで、流行っている曲を一曲買う事が多い時代でした。そんな訳で、アルバム(当時で言うLPレコード)は1万枚売れれば凄いと言う時代でした。
フォークソングが音楽業界で一気に革命を起こしたと言われます。同時に1972年10月から、それまで誰も行っていなかった全国56会場、1年以上に及ぶロングツアーを開始します。
淀みなく快進撃を続ける吉田拓郎さんでしたが、1973年5月23日の早朝に都内にある自宅に、突然押し掛けてきた石川県警金沢中署の刑事が3人から、丸の内の警視庁に連行され逮捕されてしまいます。
罪名は婦女暴行致傷容疑、一か月前の4月18日の深夜、金沢でのコンサートを終えた吉田拓郎さんは、バンドのメンバー3人と市内繁華街のスナックに入店します
店には女子大生A子さんがいました。A子さんは大好きな吉田拓郎さんだと言う事でテンションも上がり、一緒に話をします。しかしA子さんと一緒にいたポーイフレンドは面白くありません。
店を出る際にそのボーイフレンドが吉田拓郎さんに捨てゼリフを吐き、それにむかついた吉田拓郎さんが男性の顔を殴ってしまいます。(今だと、これでも大問題になりますが。(-_-;))
男性が、唇から血を流していた事もあり、吉田拓郎さんのホテルで手当てを受けて男性は一人で帰宅します。
部屋に吉田拓郎さんとメンバー、一緒についてきたA子さん、スナックの女子店員が残って、酒を飲みながら皆でトランプなどをして過ごしました。
そして深夜になると、吉田拓郎さんがA子さんを自分の部屋に連れてゆき、吉田拓郎さんから20分にわたって監禁され、暴行されかけたが、懸命の抵抗で未遂に終わったと金沢署が発表しました。
吉田拓郎若い頃。女子大生の虚偽で誤認逮捕。吉田拓郎の母は?
しかし、これは19歳のA子さんの全くの狂言で、ホテルの部屋でみんなで酒を酌み交わし、トランプをしたところまでが、本当の話で、帰り際におでこにキスをして、A子さんは帰宅しています。当然怪我なんかしてません。
何故そんな狂言を・・・と言う事になると、そもそも、A子さんは、両親に友人宅に泊まると嘘をつき、朝帰りしたのですが、後にウソがばれて、とっさに「吉田拓郎に暴行された。」とさらに嘘を重ねてしまいした。
A子さんの婚約者は、激怒し、A子さんは起訴を止める事が出来なくなってします。手錠を掛けられ、金沢署に連行され、一方的に攻められる吉田拓郎さん。
A子さんは、朝帰りの次の日、大学で友人に「吉田拓郎とデートした!」等と自慢していたと言いますから、呆れたものです。
金沢警察署の外では、逮捕の報道を聞いたファンが集まり、吉田拓郎さんを勇気づけようと、みんなで歌を歌っていたと言います。
それまで、『フォーク界の寵児』等と持ち上げていたマスコミは、27歳の思い上がった男として『ハレンチフォーク』なんて、こき下ろします。
ここでは触れていませんでしたが、吉田拓郎さんは、始めはテレビにも出ていました。出始めた頃に不慣れな吉田拓郎さんに、テレビ用に短くアレンジされた曲になっている事を担当者が伝えておらず、
フルで歌ったら、当時ヒット曲を飛ばしていた布施明さんに「ド素人が!そんな事も解らないのか!」と罵倒されたと言う事がありました。
布施明さんの心境を思うと、自身のデビューは歌が上手くホリプロからスカウトされ歌手になった、『当時』の正統派の歌手だった布施明さんにとって、
訳の分からない時代の流れみたいなものに焦りもあったのかもしれません。吉田拓郎さんはその後も布施明さんに、前の仕事で遅れた事を詰られトラブルになっていました。
その話は2002年に布施明さんが、30年前の自身の非礼をテレビのバラエティ番組で謝罪しております。
何はともあれ、そこから吉田拓郎さんのテレビ嫌いが定着したようで、敷いてはフォークシンガーがテレビに出ないと言う流れが定着したのかもしれません。(吉田拓郎さんの場合のちに冠番組まで持ちますが)
そんな事もあり、マスコミ全体に批判的だった吉田拓郎さんに対して、鬼の首を取ったとばかりに、マスコミは尾ひれを付け報道します。
留置所の中で、久保利英明弁護士との面談、どうしてよいか解らない吉田拓郎さん。何度か『やった』と噓をついても、ここを出たいと思ったと言いますが、久保利弁護士は、吉田拓郎さんを勇気づけます。
しかし、警察もちゃんと調べれば、一緒にいたバンドのメンバーなどの証言から、事実関係を理解し、A子さんが起訴を取り下げた為、釈放されます。留置されてから10日間が過ぎてました。
その間に、吉田拓郎さんが留置所にいる時に、1973年6月1日アルバム『伽草子』が発売されます。今のご時世なら考えられませんが、事務所が吉田拓郎さんの潔白に自信があったのでしょう。
あっという間にオリコンチャートを駆け上り再び1位となります。
急に口数が少なくなったマスコミは、大々的に叩いていた拳も小さくなり、不起訴になった事も恐らく、半分以下の記事で伝えました。又、未成年の一般人であるA子さんも、報道の矢面に立つこともありませんでした。
吉田拓郎さんが、A子さんを逆に告訴しなかった事で、当時のフォークソングを快く思っていなかった人には、裏工作があったのではなんて声もありましたが、
真相は、吉田拓郎さんのお母さんの朝子さんが「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」といい、自分のしでかしたことで、恐らくすごく傷ついているだろう19歳のA子さんをかばってあげたのです。
今なら、CMの打ち切りや、コンサートの中止など莫大な損害が発生している訳で、吉田拓郎さんが許しても、事務所は許してくれなそうですが。
そもそも19歳の女性と飲酒した事でも、当時と今の感覚は大きく違うので、比べても仕方がありませんが、ある意味、おおらかで許された時代だったんだなと感じます。
吉田拓郎若い頃。夏フェスの始まりは、吉田拓郎がオールナイトで!
釈放された次の日、吉田拓郎さんは神田共立講堂のステージに立っています。
奥さんの四角佳子さんも参加し、泉谷しげるさんや山本コータロウさん、南こうせつさん、かまやつひろしさんなどが駆け付けていました。練習も無しにぶっつけ本番。仲間の意気投合もすごいですね。
逮捕劇の翌年1974年(昭和49年)には、娘となる『彩』さんが生れています。2026年の今から52年前ですね。吉田拓郎さんのお子さんは、この時の娘さん、彩さん一人だけです。
その時期は、レコードをリリースすればヒットし、本来なら幸せであるはずの吉田拓郎さんでしたが、私生活では荒れていました。
この頃の曲に『三軒目の店ごと』って言う曲があるのですが、この曲のまんまの生活だった様です。
逮捕された事も大きな心の傷になっていたようです。毎日飲み歩き、色々な女性を連れまわしていた時期だったと言います。
その頃には、数年前、渡辺プロに押し掛けた時にお茶を出してくれた森進一さんは、1971年の『おふくろさん』等のヒット曲で、演歌の王道を邁進していました。
吉田拓郎さんが楽曲提供した(作詞は岡本おさみ氏)『襟裳岬』が大ヒットとなりました。
当時はあまり違うジャンル同士を結び付ける現在コラボレーションと呼ばれるような事が行われていなかったように記憶しています。
ここでも又、ロックやフォークの方が演歌界や、アイドルの方に曲を提供すると言う先駆けになっていました。
兼ねてから、吉田拓郎さんが歌手に曲を書くなら、『森進一』と『都はるみ』に書いてみたいと言っていた事をきっかけに、ビクターからは反対されましたが、
当時の森進一さんも又、女性の狂言が元で、トラブルを被っていた事もあり、お互いにシンパシーを感じていたのかもしれません。
この曲でレコード大賞を受賞し、授賞式にジーンズ姿で賞を受け取った事で、頭の固い人達の間で物議を醸し出し、支持してる人たちは絶賛したのでしょう。
1974年から1975年にかけてのおよそ2年間は、常人には考えられない程の行動を見せます。2月にかまやつひろしさんに『我がよき友よ』を提供するとヒットし、
そして、1975年6月1日、音楽業界を激震させる『フォーライフ・レコード』を設立します。
吉田拓郎さん、小室等さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんの4人が、自分たちの制約のないレコードを作りたいと言う事で、ミュージシャン自らレコード会社を立ち上げたのでした。
詳細は泉谷しげるの妻はどんな人?若い頃は?子どもは?孫は造形作家なの?
この後、吉田拓郎さんはこの会社の為に東奔西走する事になるのですが、何しろ当時のミュージシャンの長者番付7位の井上陽水さんと、5位の吉田拓郎さんの二人がそれぞれの事務所を抜ける訳なので業界も穏やかではありません。
この会社の立ち上げと共に、『よしだたくろう』のひらがな表記から『吉田拓郎』の表記に変えます。
そして1975年。前年の1974年の秋からある計画がありました。ボブ・ディランが全米から人を集めコンサートを開くことをお手本に、吉田拓郎さんも出演した中津川フォークジャンボリーのようなコンサートを出来ないだろうか?
そんな想いが、吉田拓郎さんを突き動かします。
1975年8月2日から3日、静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」が開催されます。
人気絶頂の吉田拓郎さんと、同じ年の4月にすでに解散していた『かぐや姫』のメンバーに声を掛けると鶴の一声で再結成されました。
吉田拓郎さん単独でとも思ったのですが、さすがに一人では厳しいと判断したようです。これは、今で言う夏フェスの先駆けですが、今でも、オールナイトってのは、なかなか無いでしょう。
50000人以上の動員数を掛川に集めます。
吉田拓郎若い頃。3人の妻と結婚の時期。社長として奔走した時期
その年の秋、吉田拓郎のオールナイトニッポンで、
午前1時の時報が鳴った。オールナイト・ニッポンの耳馴れたテーマ・ソングが流れた。拓郎はゆっくりカフを上げ、マイクをONにした。
「こんばんわ、吉田拓郎です。こういう話をここでするのはどうしようかと迷ったけど、この放送では裸の自分を曝け出していたつもりだったから、オレ達は離婚することになりました。拓郎のオールナイト・ニッポン最終回です」CM、が無機質に流れた。いつものぶっきら棒な拓郎の口調だった。ラジオを聞いているリスナーは、事の重大さがわかるまでに暫くの間が必要だった。「週刊誌に書かれる前に、俺の口から直接言ってしまおうと決心した。取材は一切受けつけないつもりなので、この事について喋るのは最初で最後です」出典:みねやの二階 オールナイト・ニッポン最終回 石原信一/挽歌を撃て(八曜社)1980年8月9日
別居が始まった直後に、そんな風に切り出してラジオで離婚の告白をしています。結婚生活の中、吉田拓郎さんは浅田美代子さんと出会います。
吉田拓郎さんは、浅田美代子さんも含め、キャンディーズ(やさしい悪魔など)、アグネス・チャンさん(アゲインなど)や石野真子さん(狼なんか怖くないなど)に楽曲の提供をしています。
因みに、吉田拓郎さん、アイドルとのレコーディングが何より楽しいと語っていた時期もありました。
浅田美代子さんとは1975年の『じゃあ、またね』等の曲のレコーディングなどで知り合い、交際となったのでしょう。
四角佳子さんと結婚している時期でしたが、浅田美代子さんは
「拓郎さんが好きです。奥さんや子供さんがいてもかまいません。誰が何と言おうと交際をやめません」
そんな風に語っていましたが、吉田拓郎さんは、妹のような感じだと答えていましたが、1975年の9月のオールナイトニッポンで先の様に離婚を発表します。
2年後の1977年7月に吉田拓郎さん浅田美代子さんは、ハワイのワイキキで結婚式を挙げ、結婚生活に入り、浅田美代子さんは芸能界を引退します。
吉田拓郎さんは31歳になり、浅田美代子さんは21歳でした。
しかし、この結婚生活も長くは続きませんでした。1984年には約6年間の結婚生活に終止符を打ちます。
女性問題については、色んなことのある吉田拓郎さんですが、仕事や、普段の生活ではきっちりされていらっしゃるようです。
一方、バラエティ番組などで拝見する浅田美代子さんに貼られている『天然』のレッテルはそのままの様です。
離婚原因について、明石家さんまさんに「わかるでしょ?」とトーク番組で同意を求めていた事からも、明石家さんまさんの元妻の大竹しのぶさん同様、同じような感覚を示唆していたのだと思います。
又、華やかな芸能界から、人気絶頂の時に引退して、家で一人、深夜まで帰ってこない夫を待つ20代前半の浅田美代子さんも辛かったのだと思います。
浅田美代子さんとの結婚生活の中でも、他の女性へは、絶えずアプローチしていたようで、この辺の話になると女性から反感を買うのだろうと思います。
結婚して3年目頃にラジオ番組に女優の森下愛子さんに出演依頼をします。その後、二人は美容院で偶然に出会い、吉田拓郎さんは、森下愛子さんを自身のレコーディングスタジオに誘います。
普段なら、やんわりとお断りしていた森下愛子さんですが、何があったのか?寂しい時期だっといいます。
24歳か25歳の頃だと思います。1983年頃になると、二人の関係について、マスコミも騒ぎ出しますが、直撃のインタビューを受けると「男と女の事だからどうなるか分からん。」と答えています。
その後、吉田拓郎さんが40歳、森下愛子さんが28歳の時に結婚します。
その間も吉田拓郎さんは、仕事は精力的に又、逆境の中を突き進みます。
フォーライフレコードが出した、メインの4人によるクリスマス・アルバムが失敗して、2代目の社長として会社の建て直しに奔走します。
又、1977年の9月に井上陽水さんが、大麻取締法違反の容疑で逮捕されると、謝罪や減刑を求める為に走り回ります。
1979年7月26日から愛知県南知多町の篠島でオールナイトで行われた『アイランドコンサートイン篠島』この、映像は地元のテレビで見た記憶があります。
篠島のコンサートでは、あの長渕剛さんも参加して、『帰れコール』の洗礼を受けますが、はねのけて熱唱しています。
1985年7月27日から7月28日に再びつま恋で行われた、『吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋』筆者moonは、二十歳になったばかりで、このコンサートは行きました。
随分、暑い日で 会場のヤマハリゾートつま恋多目的広場の手前までシャトルバスが走り、長い上り坂を汗をかきながら登って開演まで数時間待ちました。
アルフィーや、浜田省吾さんなどサプライズゲストもすごかったのですが、40000人近い観客を動員しています。
その後の吉田拓郎さん、2003年に肺がんである事を発表して、手術療養に入って無事に復活を成し遂げています。
吉田拓郎さんとかぐや姫が2006年(平成18年)9月23日に行った静岡県掛川市・つま恋多目的広場での野外ライブコンサートでも圧巻の35000人を動員するパワーをお持ちです。
気管支を患ったり、精神的に安定ない時期もあったと報道されましたが、森下愛子さんも又、辛い時期があったそうですが、お互いに支え合う事が出来た様です。
フジテレビの『LOVE LOVE あいしてる』では、同じ出演者の堂本兄弟に奥さんの事で冷やかされたりしているのが微笑ましかったですね。
『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』は、2022年7月21日(木)特別番組で、テレビ出演も、芸能活動も引退の様に伝えましたが、2026年ライブの話などが聞こえてきました。
Rolling30 動けぬ花になるな!
Rolling30 転がる石になれ!
いかがだったでしょう。今回は色々な思いを乗せて前編・後編にて吉田拓郎さんの若い頃から奥さんの話などを綴ってみました。
→前編

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