谷村新司さんが、一昨年(2023年)の10月に亡くなって、早いもので一年以上が経ちました。
言わずも知れたアリスのメンバーとして、又、ソロシンガーとして、長年に渡り日本のミュージックシーンに君臨されていました。
しかし、若い頃は下積み生活が長く、ご苦労もあったようですが、お亡くなりになる少し前まで、いつも笑顔が印象的な方でした。
改めて谷村新司さんの曲を聞いてみると、その時代と熱量を感じる曲が多く、又、若い頃によく聞いたラジオ番組の事などを思い出します。
そんな谷村新司さんの若い頃のお話をまとめてみたいと思います。
谷村新司の若い頃、実家の家族構成は両親と兄と姉がいる。
谷村 新司(たにむら しんじ・本名同じ)さんは、1948年〈昭和23年〉12月11日に大阪府南河内郡長野町(現・河内長野市)生まれ。
大阪市立桑津小学校、大阪市立東住吉中学校、大阪府立大和川高等学校(現:大阪府教育センター附属高等学校)を卒業後に、桃山学院大学に進学します。
谷村新司さんの実家の家族構成は父と母、そして兄弟に兄と姉の5人家族です。
大阪府南河内郡長野町(現・河内長野市)の長野温泉で親族が営んでいた旅館に両親が疎開していた為、谷村新司さんは戦後に末っ子としてそこで生まれました。
その後3歳の時に大阪市の東住吉区に引っ越しされています。お父さんは会社を経営されていて、裕福な少年時代を過ごします。
幼少期は小学2~3年生くらいまでは、走るのが早くリレーのアンカーに選ばれるくらいでしたが、
小学4年生の頃から食べる事が楽しみになり太ってしまい、あだ名は『ブタ』 昭和の子供たちのストレートな表現は今なら問題ですが、当時は当たり前でした。( ;∀;)
母親は長唄の三味線をやられており、谷村新司さんも子供の頃から、歌が上手いと褒められることも多かったそうです。
しかし、谷村新司さんは、音楽の時間に積極的に歌ったりすることもなく、音楽もそれほど興味が無かったそうです。
谷村新司さんの音楽の中には、日本独特なものを感じることがあります。それは、演歌や浪花節とは一括りに出来ない、恐らく子供の頃から聞いていた”音”なのかもしれません。
谷村新司の若い頃、モテる為にギターをやるしかない。
そんな谷村新司さんには、中学時代に1年間文通をしていた女の子がおりました。ある時写真を送ったところ返事が来なくなってしまったといいます。
谷村新司少年はショックを受け、この事をきっかけに、『女子にモテるためにギターをやるしかない。』と一念奮起します。(笑)
又、谷村新司さんは、中学生の頃から作詞をしておられました。中学生の時に谷村新司さんの自作の曲で、女の子が涙を流したのを見て、「音楽で生きてゆこう。」と心に決めたといいます。
「ギターや、バンドはモテる。」という事が、音楽の道に進んだきっかけだったと、この辺の話は、生前、谷村新司さんが時折お話されていました。
谷村新司さんは、高校2年生になると同級生の山本峰幸さんと、友人のガールフレンドの妹で声楽をやっていた3歳年下の島津ちづ子さんの3人でバンド「ロック・キャンディーズ」を結成します。
谷村新司さんは、高校卒業後、桃山学院大学に進学します。ゴルフ部に入りますが、動機は、ここでも「会社員になった時、新人でゴルフが上手いとモテるのではないか?」と言う事だったようです。
しかし、あまりにも本気のバリバリの体育会系で、新人戦の成績が振るわなかった事で、全員坊主頭にされた事などでついて行けずに1年で辞めてしまいました。
それと同時に『ロック・キャンディーズ』が人気が出だし、大阪と神戸で絶大な人気を博します。
谷村新司の若い頃、アマチュアバンドがブレイクするも?
ロック・キャンディーズは、1968年9月には、シングル『どこかに幸せが』で東芝レコードよりデビューします。その後、1971年には唯一のアルバム『讃美歌』をリリースしますが、その年に解散してしまいます。
谷村新司さんは、桃山学院大学中は、ロック・キャンディーズの活動が忙しくなり、結局7年間大学に在籍して中退されています。
谷村新司さんのターニングポイントとも言うべき出会いは、1970年、あの大阪万博の会場で出会った後に、アリスの所属事務所『ヤングジャパン』の社長となる細川健氏と知り合う事になります。
その後、細川氏が実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」と言うバンドでした。
ブラウン・ライスのドラマーの矢沢透さんと知り合います。二人は意気投合し、日本に帰ったら一緒にバンドをやろうと約束します。
この時に、ロスアンジェルスのレストランに『Alice』と言う名の店があり、ペン字のロゴが、かっこよく、プロになるならこの名前だと思ったといいます。
その後、アマチュアバンドでボーカルをしていた堀内孝雄さんをアリスに勧誘し、1971年12月25日、谷村新司さん、堀内孝雄さんの2名で「アリス」が結成され、1972年の5月になると矢沢透さんが正式に加わりました。
しかし、そこから足掛け5年は、ヒット曲もなく、年間に300回を超えるライブを行うなど長く厳しい下積み生活が続きます。
又、所属事務所の代表が行った企画などが裏目裏目に出てしまい、70年代に1億5000万円と言う借金を抱えてしまいます。現在なら10倍くらいの金額ではないでしょうか?
谷村新司の若い頃。妻はブティックの店員。運命の人と思った!
さて、少し話は戻りますが、1960年代に佐竹敏郎さんというシンガーソングライターの方が、『ウッディ・ウー』と言うバンドをやってました。
そんな佐竹敏郎さんが、1969年9月、自ら作詞・作曲した『今はもうだれも』と言う曲をリリースしております。
アリスのファンの方なら、すぐに思い浮かぶ曲ですが、1975年9月、アリスが『今はもうだれも』をカバーしてシングルリリースすると、この曲がアリスにとって初めてのヒット曲となります。
そこで、その波に乗った谷村新司さんは、何とか事務所の借金を返済したいと徹底的に計算し、曲を作りこんで発表したのが、『あなたは、稲妻のように~♬』で始まる『冬の稲妻』でした。
谷村新司さん自身の曲としては初の大ヒットとなります。その後アリスとして発表した曲は、次々にヒットします。
思い浮かぶだけでも『涙の誓い』、『ジョニーの子守唄』、『チャンピオン』、『狂った果実』、『遠くで汽笛を聴きながら』等々のヒット曲や好きな曲があります。
1975年頃から、原宿のブティックで時折、買い物をしていた谷村新司さん、5歳年下の店員の孝子さんという方と会った時に、「運命の人だ!」と思ったといいます。
のちに、谷村新司さんの妻として、個人事務所の社長として、マネージメントを任される事となる方です。出会いの時を谷村新司さんは、
なんていえばいいかなァ、言葉を探せば、肌が合うというか同じ匂いを感じ合えるということでした。(1977年・『週刊女性』)
と、お話されています。
出会って1週間後の初デートでプロポーズして、2年少しのお付き合い後に神戸の教会で結婚式を挙げて、ゴールインされています。
エピソードの沢山ある谷村新司さん、この後のお話は、またの機会にと言う事で、いかがでしたか?谷村新司さんの若い頃、ご実家のお話、奥様との出会いなどまとめてみました。
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