上田正樹さんは、『悲し色やね』『大阪ベイブルース』『TAKAKO』など多くのブルースやバラードのヒット曲をお持ちのソウルシンガーです。
前に上田正樹さんのコンサートに伺った時に、曲の合間に若い頃、祖父母の仕事の京都の呉服屋を継げと言われ、風呂に行ってくると言ったまま、家を出て、そのまま数年帰らなかった。と言うお話をされておりました。
面白おかしくお話されていたので、本当の事なのか?半信半疑ですが、今回、上田正樹さんのキーワードに「がん」と言うキーワードがあり、気になったので調べてみました。
上田正樹 がん?高校生の時に見たコンサートが現在まで。
上田 正樹(うえだ まさき)さんは、1949年〈昭和24年〉7月7日 、京都市のご出身です。
始めに書いちゃいますが、上田正樹さんは、がんではないようです。
ただ後述のバンドメンバーのベーシスト藤井裕さんが2014年10月16日の朝に食道がんでお亡くなりになっている事や、
2015年8月26日に
有山じゅんじの公式HP等でご報告の通り、初期の咽頭癌が認められたため、
などから、検索エンジンで『がん』と言う文字が出てくるようです。
では、少しだけ上田正樹さんのご家族のお話を・・・。
上田正樹さんのお父さんは、京都大学医学部卒業の医師でした。恵まれた環境で育っていた上田正樹さんでした。
しかし、京都市立第三錦林小学校の小学生の時に、父は感染した結核の症状が悪化してしまします。
その後、母も感染したため、京都市立第三錦林小学校二年の時に、母親の実家・兵庫県姫路市に預けられます。
母は、病状は回復したのですが、父は、39歳の若さで、お亡くなりになってしまいます。その後、上田正樹さんの母は父の親友である医師と再婚しました。
義父に対する母を巡る嫉妬心もあり「絶対この義父には負けたくない」と東京大学医学部を目指して猛勉強していたといいます。
上田正樹さんは高山市立松倉中学校では生徒会長も務め、進学校の岐阜県立岐阜高等学校に進学します。
順調に医師の道へ向かっていた上田正樹さんは、それまで聞くともなく聞いていた音楽でしたが、
高校2年の時に友人誘われた名古屋で行われた一枚のロックコンサートのチケットが、上田正樹さんの運命を変えました。
上田正樹、がん?現在の基礎を作った高校、下積み時代。
そのコンサートはイギリスのロックバンド『アニマルズ』の名古屋公演でした。
学校帰りに学生服のまま、観客席の最前列に座る上田正樹さんは、そのコンサートを観て、「Boom Boom」という曲を聴いて上田正樹さんは体がしびれました。
今まで、東大医学部を目指して勉強してきたことなど意味が無いと思ったといいます。
音楽の中に自分の人生の答えがあると感じました。その後、一緒にコンサートを観た友人とフォークバンドを組み、音楽漬けの日々を送ります。
当然、成績は落ち込み、その日以降、シンガーになると言った上田正樹さんに、家族はもとより、親戚も含め猛反対されたと言います。
そして、高校3年の時に、再び、兵庫県の母の実家のある兵庫県立福崎高等学校に編入する事になりました。
そこは、進学校のようなところではなく、ギター部に入り、仲間と毎日猛練習していました。上田正樹さんと仲の良い4人でバンドも結成しました。
上田正樹さんが無断で音楽室を使っていても、先生も黙認してくれていたり、上田正樹さんは学校にばれないように、姫路のディスコで、コンサートも行っていました。
上田正樹、がん?ホームレス時代からサウス・トゥ・サウス時代
高校卒業後、岐阜大学に入学します。兵庫県から再び、京都に戻りますが、音楽をやっているというだけで、当時は不良と言う風に見られた時代でもありました。
「ちょっと風呂に行ってくる」と言って、京都の実家を出たのは19歳。行き先は大阪。それから6年ほど一度も戻らなかった。
出典:2024年6月19日付 日本経済新聞
先に書いたライブでのお話は本当のようでした。(笑)
その後、当てもなく大阪に向かい、3か月ほどホームレスになりながらも音楽をやりたい一心で、ディスコやキャバレーを回り、歌わせてもらって生活をしていました。
1972年12月、「金色の太陽が燃える朝に」でデビューします。この曲は今の上田正樹さんのイメージと違い、作詞は何とあのアンパンマンのやなせたかしさん。
明るめのリズミカルな作品です。
1974年8月に福島県郡山市で開催されたワンステップフェスティバルに上田正樹とサウス・トゥ・サウスでデビューします。
この『サウス・トゥ・サウス』と言うのは、上田正樹さんの下積み時代に大阪の心斎橋のスタジオを、『アリス』さんが使った後、使わせてくれていた時代があって、
その頃バンドメンバーがはまっていたアメリカ南部の音楽と、大阪のミナミを繋ぐという意味だそうです。
その後、ソロになり、有線放送から徐々に一年かけて火が付きだして1983年に大ヒットした「悲しい色やね」で、全国的に名前が知られるようになりました。
その後、2000年にはアジアデビューも果たし、『FOREVER PEACE〜duet with REZA』がインドネシアやマレーシア、韓国でヒットします。
上田正樹、がん?娘は舞台女優、元妻はサックス奏者・朝本千可
プライベートでは、上田正樹さんはサックス奏者の朝本千可さんと1988年に結婚されておりますが、2006年に離婚されています。
元妻の朝本千可さんは、日本画家の方と再婚されていらっしゃるようですが、上田正樹さんが再婚された情報はありません。
1976年4月28日生まれの娘さんは舞台女優の上田郁代(うえだいくよ)さんと言う方のようですが、上田正樹さんが27歳の頃のお子さんのようです。
詳細は解りませんが、上田正樹さんを取材したスポニチアネックスの記事に
本当にかっこいいなぁと思う✨
私もこんな風におばあちゃんになりたい!
ずっと本物を追求しながら老いていきたい!2024年9月22日 上田郁代さんの『X』
と、『X』で綴っているので、お父さんである上田正樹さんの事をリスペクトされているようですね。
以上、上田正樹さんのがんの噂と、ご家族についてスポットを当ててみました。
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