所ジョージの番組と若い頃。本名と妻への想い。歌手は言い訳の為に?

フォークソング
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所ジョージさんは、筆者moonにとっては、誰がなんと言おうと(笑)歌手であります。お若い人は「えっ!所さんって歌手だったの?」と思う方も少なくないでしょう。

私が小学生の頃、その頃は、子供の間だけでもなく空前の?ダジャレブームだったような気もしますが、その時代、小学生の自分にとっては面白お兄さんだった所ジョージさん。

自分は、親に所ジョージさんのシングル・レコードを買ってもらい、古めかしい一体型のオーディオでレコードを聴いておりました。その頃、オールナイトニッポンにも登場していたなぁなんて色々思い出します。

そんな訳で、今回は皆さんが知ってる所ジョージさんを改めてフォーカスしてみたいと思います。




所ジョージの番組と若い頃。出生名と今の本名。所沢の父の功績!

所ジョージ(ところ ジョージ)さんは、1955年〈昭和30年〉1月26日生まれの71歳です。元々のお名前は「角田隆之(かくた たかゆき)」さんと言います。

1981年に当時26歳でご結婚されていて、その際に婿養子に入り「芳賀(はが)」姓になっておりますので、現在の本名は芳賀隆之さんです。

所ジョージさんのお父さんは、角田光男さんといい、東京都東村山市出身の方です。お父さんは五男四女の9人の兄妹で、次女の方は早くに亡くなられたのかもしれません。

そんな訳で8人兄妹で、現在、ご実家には所ジョージさんの従兄弟にあたる方が暮らしているそうです。

従兄弟の方は所ジョージさんの5歳年上で、子供の頃から一緒に、プラモデルなどを作って遊んでいたと言います。

実家は埼玉県所沢市の農家でしたが、所ジョージさんの父方の曽祖父は、農業の傍ら鍛冶屋の仕事も熟し、財を成したのですが、息子である所ジョージさんのお祖父さんが、

地元では、『銀流し』(昔、水銀に混ぜ物をして銅などを銀に見せた細工)と呼ばれるような、着飾っているが見掛け倒しと後ろ指を指されるような方だったようです。

親の財を食いつぶして、土地まで失うような有り様で、お祖父さんは昭和16年に亡くなりました。所ジョージさんのお父さんは、大正15年(1926年)生まれで、14歳の頃です。

所ジョージさんの父・光男さんは岐阜陸軍航空整備学校に入学し、戦闘機などの計器の勉強をしますが、戦争が激しくなり、1年少し学校に行った昭和19年(1944年)17歳で戦地に赴きます。

中国の満州で日本の戦闘機の修理を行う人員として駆り出され、1年後、終戦の二日前にマラリアに掛かり、そのまま現地で抑留され、半年後、昭和21年(1946年)の春に日本に帰還します。

帰国後、所ジョージさんの父・光男さんは警察予備隊に入隊します。現在の陸上自衛隊の前身となる準軍事組織ですが、当時は『警察予備隊』と言う名前でした。

今から考えれば、10代の内から、大変な経験だったと思います。その後、同じ所沢市で、兼業農家の娘さんで、大手時計メーカーのシチズンに勤める智江(としえ)さんに一目ぼれします。

智江さんの父は、農業の他に生活の為に露天商も行っていました。当時は、関東地方では定番だった『飴売り』も行っていました。

飴売りは太鼓を叩き、太鼓の音に集まってきた子供が、飴を買うと紙でこしらえた小さな旗と、踊りを披露するのが習わしだったそうです。

飴屋さんが集まり、お芝居や歌、踊りなどの芸で興行する事もあったと言いますから、一つのエンターティナーだったのかと思います。

そんなお父さんの影響を受けた智江さんも歌や踊りが好きだったようです。

さて、智江さんにひとめぼれした所ジョージさんの父・光男さんは、結婚を許しを得ようと智江さんの家に赴きます。

しかし、長年の露天商をしていて、警察にはあまりいい思い出がなかった智江さんの父・定吉さんは、「俺は警察が大嫌いだ。持ち家がないやつには娘はやらん。絶対に結婚は認めん。」と言われてしまいます。

そこで、二人は駆け落ち同然で、家を出、小さなアパートで同棲を始めます。それでも夫の光男さんは、智江さんの父から結婚を認めてもらおうと、警察予備隊を辞め、智江さんの支えで、血の滲むような勉強を続け、

昭和27年(1952年)、光男さんは銀行の採用試験に合格し、協和銀行(現、りそな銀行)の銀行員に転職します。

その後、所沢の小さな借地に、給料が出る度に材木を買い、兄と二人で、専門家が必要な基礎工事以外は別にして、殆どを自分たちで家を建てました。

昭和26年(1951年)に智江さんの父に結婚を認めてもらえませんでしたが、そこからわずか3年後の昭和29年(1954年)には、智江さんの父の高い条件をクリアして晴れて結婚します。

所ジョージさんのお父さんのバイタリティと実直さ、実は息子である所ジョージさんが、奥さんを非常に大切にするところと共通点を感じる訳です。



所ジョージの番組と若い頃。言い訳の為の芸能活動宇崎竜童への賄賂

所ジョージさんのご両親が結婚すると、翌年の1955年(昭和30年)に所ジョージさんが生れます。所ジョージさんには3歳年下の妹さんが居ります。

所ジョージさんは、所沢市立南小学校に入学、プラモデルを作るのが好きで、その頃から手先が器用でした。

中学もやはり、地元の公立校で所沢市立南陵中学校に入学します。お父さんが苦労人だった分、厳格なところもあり、所ジョージさんも成績が良く、テニス部に入っていました。

その頃にモテたい、人気者になりたいと言う、誰でも思春期には持つだろう下心がありつつギターを手にしてみますが、全然弾けないので、すぐにしまい込んでおりました。

高校時代は、東京は小平市にある錦城高校に、入学、バイク通学を始めました。ハンドボール部に籍を置いていたようです。

そんな所ジョージさんは、一浪して、拓殖大学に入学し、アーチェリー部に入って練習に精を出し、彼女もいた様です。

実は所ジョージさんは、目の前のモノに夢中になると、その楽しいものを辛い抜いてしまうようです。

中学時代はテニス、高校の時はハンドボール、そして大学ではアーチェリーと、その時やっている事に熱中します。

そこまで聞くと、ちょっと前によく若者間で使われていた”リア充”なんて言葉を思い浮かべますが、問題は、大学の授業には一回も出ておりませんで、当然ながら1年生の時に、留年が決定し、更に学費の手続きが遅れて、除籍になってしまいます。

そこで、厳格な父にどんな言い訳をしようか?悩みます。所ジョージさんは、しまい込んであったギターを引っ張り出し、活動していた訳でもない芸能界を言い訳に考えます「芸能活動が忙しくて。」と言う言い訳でした。

普通ならすぐにバレてしまうのでしょうが、そこが所ジョージさんの凄い所で、20曲くらい曲を作って、レコード会社にテープを送ってみたそうです。

当然、何社も断られますが、東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)に送ったデモテープが、きっかけで面白いからきてみたらと言ってもらい、そこで宇崎竜童さんと出会います。

所ジョージさんが、オーディションに、ことごとく落ちているという話の中、宇崎竜童さんに煙草をワンカートン渡して「それ、賄賂です。」と言ったそうです。

宇崎竜童さんは「じゃぁ、来月、渋谷のライブハウスでライブあるから、前座やりな。」って事になり、かつて渋谷にあったライブハウス渋谷ジァン・ジァンで、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの前座を務めさせてもらいます。

そうして所ジョージさんは、髪型をリーゼントにして、サングラスをかけ、つなぎを着てステージに立ちました。

すると、会場はみんなが『キャー』と言う黄色い声に包まれますが、よく見るとちょっと違う。(当然)(笑)すぐにシュンとなってしまいます。

芸名も無いので、宇崎竜童さんに考えてくださいと、頼んだら、海外の人にも覚えてもらいやすいようにと、宇崎竜童さんの本名【木村 修史(きむら しゅうじ)】から、しゅうじ→ジョージ。

所沢出身と言う事で、『所』を姓にして『所ジョージ』という芸名が出来上がります。宇崎竜童さんは、名付け親となり、今でもお中元とお歳暮が来るとラジオ番組でお話されておりました。

所ジョージさんは大勢の人前で歌う経験などなかった状態だったらしいのですが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの付き人として活動を始めます。

しかし、前座時代は、小遣い稼ぎに勝手に宇崎竜童さんのシールを作って売ったり、前座を務めると、どうせ誰も聴いていないと、ステージで餅を焼いて食べたりとやりたい放題だったようですが、宇崎竜童さんは懐が深いのでしょう。

付き人生活一年ちょっとで、1977年7月25日に『ギャンブル狂想曲/組曲 冬の情景』で、シンガーソングライターとしてデビューします。



所ジョージの番組と若い頃。中島みゆきに作らせた名曲とは?

その『ギャンブル狂想曲』も『冬の情景』も、まぁ俗に言うコミックソングです。同じ年の11月には、やはりコミックソングの『ムーン・ナイト・セレナーデ(月光夜曲)』が発売されます。

題名はかっこいいのですが、こちらも

月夜の晩、柳の下、突じょ でましたオオカミ男                             トイレに行くから紙をくれ                                          オー紙、オーカミ  となきました。

         引用:所ジョージ   ムーン・ナイト・セレナーデ(月光夜曲)

チョーくだらないのですが、小学生の自分には響きました。(笑)

そんな訳で、所ジョージさんのレコードは何枚か持っていて、自分のレコード史の中では、「あのねのね」と共にちょっとした黒歴史となっています。(笑)

丁度、この曲が発売される少し前に、無名ではあったのですが、しゃべりが面白いと、いきなり、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』の第一部に大抜擢されます。

ようやくデビューしたばかりの時で、プロモーションでニッポン放送を訪れたところ、トークの面白さがディレクターの目に留まったのがきっかけになります。

いきなり全国ネット人気番組オールナイトニッポンの火曜1部に大抜擢。ここから所ジョージさんの名前が知られるようになりました。

あの松山千春さんでさえ二部からスタートだったのですが、そこらへんが、所さんのスッゴイ所なんでしょうね。

所ジョージさんの曲の中に『寿司屋』と言う曲があります。当時オールナイトニッポン月曜日を担当していた中島みゆきさんと、同番組内でゲームをやって、

中島みゆきさんが負けたら、所ジョージさんの次のシングル『寿司屋』に因んで、『蕎麦屋』と言う曲をつくって歌うと言う賭けみたいな事でした。

中島みゆきさんは、所ジョージさんの思いつきで始まったゲームに負け、『蕎麦屋』を作ることになりました。

中島みゆきさんの名曲の中に、古参のファンなら誰でも知る曲の『蕎麦屋』のエピソードですが、所ジョージさんの『寿司屋』も中島みゆきさんの『蕎麦屋』も、自分と言う存在に自問自答している姿が歌詞から感じ取れます。

とは言っても、ミュージシャン所ジョージとして20204年に新浜レオンさんに 提供した楽曲「全てあげよう」が「日本レコード大賞」作曲賞を獲得すると言う出来事もあり、ミュージシャンとしての所ジョージさんも再発掘されました。

所ジョージさんが大学生からのインタビューに答えて、今の若い人達にメッセージとか言われていた件があり、「何も言う事が無い。」と言い、行き当たりばったりでやっていると答えておりました。それで困ったことは無いですか?と言う質問に所ジョージさんは、

いや、何にも考えてないから、困りようがない。手だてを先に考えちゃったら、困ったり成功したりはあるけど、僕は何にも考えてないから、手応えがないし、やり遂げた感はないよ。日々楽しいなっていうことだから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

目の前のものでお腹いっぱいにするっていうようなもんだよ。だって目の前に(食事が)あるのに、あれ食べたい、これ食べたいって思うことのほうがおかしいだろ? 目の前に用意されたものを美味しくいただくことのほうが幸せじゃん。
それを(人生)全体に置き換えてるような感じだよ。目の前にあるんだから、それを楽しむっていうね。

出典:2010年1月12日・13日付 MAG 所ジョージさんインタビュー「本人曰ク、文化人類学的」

所ジョージさんの感性に大学生の皆さんは、「自分たちが失敗を恐れ過ぎているのかもしれない。」と繋いでいます。

確かに、所ジョージさんのような感覚が今の日本には欠如していると感じます。



所ジョージの番組と若い頃。妻と世田谷ベース、娘が二人。それに孫

そんな所ジョージさんには人間的な魅力を感じますが、人として大丈夫だろうと思う根拠として、奧さんへの愛情表現も大きいと思います。

所ジョージさんの奥さんは芳賀文子さんと言う方です。1953年生まれで、所ジョージさんより2つ年上の姉さん女房です。

奥さんの文子さんは、福島県いわき市のご出身で、いわき市では旧家の芳賀家があり、「芳賀」姓の方は多いようです。

福島県から上京して、青山学院大学に通いますが、中退してスナックを切り盛りしていたと言います。

都内にあるそのスナックに、所ジョージさんは立ち寄り、文子さんに一目ぼれをしました。ここまでは、ままある話ですが、所ジョージさんはその日のうちにそのまま文子さんの家に転がり込みます。

1981年9月所ジョージさんが26歳の時に正式に結婚しますが、一人娘の奥さんの実家に結婚の許しを得に行くと義父に「跡継ぎがいないから養子になるなら結婚してもいいよ」と言われ、「はい、なります」と即答し『芳賀』になりました。

奥さんは所ジョージさんの個人事務所「株式会社ティヴィクラブ」の社長を務め現在は長女のさやかさんが代表取締役社長の職に就いているそうです。

所ジョージさんは、「血の繋がった子供より、他人である奥さんを大事にする。」と言い、奥さんが笑顔じゃないのは、自分のせいだ。と言います。

結婚式の時はタモリご夫妻が仲人となり、赤塚不二夫さんがビデオを回してたと言います。

タモリさんが披露宴で、所ジョージさんの経歴を「拓殖大学を優秀な成績で除籍」と紹介し会場が爆笑の渦に包まれました。

この時以来、「仲人といえば」「親も同然」が、タモリさんと所ジョージさんの間の合言葉になって、所ジョージさんが、タモリさんに突っ込むとこのフレーズを多用しておりました。

娘さんが、お二人いらして、奥さんは、結婚前にスペイン料理店などの飲食店で、料理に腕を振るってきて、スッポンも捌けるくらい料理の造詣が深い方の様です。

所ジョージさんは、妻の料理が世界一自分の下には合っていると言い、飲み会の多いであろう芸能界においても、所ジョージさんは家でご飯を食べる事を基本にしているのだそうです。

逆に『世田谷ベース』や自宅で仕事仲間をもてなし、奥さんが料理を振舞うと言います。ビートたけしさんは、年中、所ジョージさんの自宅で奥さんの手料理を食べに来るのだそうです。

結婚から3年目に生まれた長女である娘さんは、オーストラリア人でNHKで英語の子供向けの学習番組を担当する方でした。結婚されていてお子さん(所さんの孫)がいらっしゃるようです。

娘さんの結婚の際には、自宅にほど近い所に、約300平方メートルの土地に約200平方メートルの3億の豪邸を建てて上げたと言いますが、娘さんの結婚は3年ほどでうまく行かなくなってしまったようです。

次女は自宅で同居しているようで、所ジョージさんは一日のピークが、奥さんの手料理を待つ夕食の時間なのだそうです。

起きたら一日中、所ジョージで活動してるから裏も表も無いと仰る。一度、筆者moonも、所ジョージさんとお会いしたことがありますが、本当に裏表のない方の様です。

1980年代に『ダサイタマ』と言う言葉で埼玉県を揶揄したように言いましたが、所ジョージさんは、変に強がったり、見栄を張ったりするところが、ダサいと一蹴し、子育てにはいいとこだよとフォローも忘れません。

そして、所ジョージさんの功績としては1984年に第1回新語・流行語大賞で「す・ご・い・で・す・ネッ」が流行語部門大衆賞を受賞した事で、今でも、このフレーズはアラ還の皆さんにはおなじみだと思われます。

つい先日まで、所ジョージさんの冠番組では一番長いと思われる日本テレビ系で毎週日曜日朝8時から放送されている『所さんの目がテン』と言う番組にミュージシャンの奥田民生さんが出演。

その様子が5週にわたって放送されました。

同番組内で建てた隈研吾さん設計の藁ぶき屋根の家に、所ジョージさんと泊まってみると言う企画でした。普段から交流があり仲が良いと言う二人ですが、掛け合いが面白く、

奥田民生さんは、小さなトラクターで水田に田植えをして、難しさと面白さを体験しておりました。

里山で自家栽培し、自ら収穫したほうれん草2種類と納豆と豆腐と言うような夕食を二人で、テレビ的にどうなの?とか言い合いながら食べて、

カエルの声を聞き、焼酎を飲みながら奥田民生さんが、ギターの弾き語りで『さすらい』を熱唱されており、それを所ジョージさんが聞き入ると言う場面。

これには奥田民生ファンにも、所ジョージファンにもたまらんでしょうね~。因みに奥田民生さんの奥さんも年上女房で、奥田民生さんは高校の時、所ジョージさんは大学でアーチェリー部に所属していた事など共通点もあります。

若い人から、ご高齢の方までファン層の広い所ジョージさん、人気番組の『ポツンと一軒家』等は本当にご高齢の方が多く見ていて、個人的にも母が生前楽しみにしておりました。

適当に見えるけど、色々な人に心遣いのできる方なのだろうと拝察いたします。

いかがだったでしょうか?今回は所ジョージさんの若い頃や、番組での出来事、家族を大切にする姿などを調べてみました。

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