吉田拓郎若い頃。今の年齢や歴代の妻!名曲と音楽業界の革命とは?1

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吉田拓郎さん。ブログを書き始めて、真っ先に書こうと思った方ですが、色々な人のブログを書いているうちに、なかなか好き過ぎて書けないと言う方が何人かおり、その中のお一人です。

しかし、そろそろ書いていた方が良いかと思いました。筆者moonが小学校1~2年生の頃、『結婚しようよ』が流れてきて、「かっこいい!」と思ったのが始まりだったような気がします。

先日、ライブ活動を再開したと聞きました。音楽活動に区切りをつけていたと聞いていたので、改めて、うれしい想いもあります。

 ライブは限定的なものですが、若い頃の事件とも言うべき出来事や、3人の奥さん、数度に渡りオールナイトで行われた野外ライブ、そんなダイナミックな吉田拓郎さんについて、多くの方が、『吉田拓郎』の事は書いていおります。

 自分は自分なりの吉田拓郎さんへの想いを綴ってみたいと思います。




吉田拓郎若い頃!年齢は80歳。父は元軍人。体の弱い少年だった。

吉田 拓郎(よしだ たくろう)さんは本名です。1946年〈昭和21年〉4月5日生れと言う事なので、丁度80歳になられたばかりですね。(2026年4月現在)

お生まれは鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)にて 、広島県広島市の育ちです。吉田拓郎さんのお父さんは吉田正廣さんと言う方で、一時、日本の領土となった朝鮮の土地を統治するための官庁の重役の軍人でした。

のちに終戦を迎えると日本に戻り、鹿児島県庁に勤め、朝鮮史家、郷土史家として著書などのある方です。

お父さんは36歳の時、朝子さん(吉田拓郎さんの母)とお見合いで結婚します。その時、朝子さんは23歳。当時は日本だった朝鮮で生まれ育ち、日本の同志社大学を卒業します。

吉田拓郎さんのお父さんは、後に地元の経済大学や短期大学の講師も行っていたと言う事で、社会的には地元の名士と言う方だったのだと思います。

しかし、父親と吉田拓郎さんとの間には距離があり、確執があったようです。
以下、2022.1.14放送 ニッポン放送「吉田拓郎オールナイトニッポンGOLD」の中でこのように語っておられます。

彼は、父は家族、僕たちを見放して、僕たちがどういう苦労をしているか、僕たちが、どんな苦労に遭ってるかなんか、お構い無しで自分だけの世界で勝手に人生を全うした人です。

だから、他人からみれば立派な方ということになるんでしょうが、我々家族としては、少なくとも母の苦労とか、彼女がひとりで広島で、三人の子供を育てたその苦労とかを、僕はこの眼で、ちっちゃな頃から見続けていましたので、その僕は決して父を赦しません。

吉田拓郎さんの曲に『おやじの唄』と言うのがあります。その中に「疑うこと」「裏切ること」「愛すること」「生きること」を教えてくれた。「一人ぼっち」で「誰にも見られず、死んでゆきました。」と歌っています。

さらに、「だけど、おやじもやっぱり人間でしたよ。」「死んで、やっと僕の胸を熱くさせてくれましたよ。」

そんな風に、何かお互いの悲しさを、明るく淡々としたメロディで歌っています。

その後に作られた『清流(父へ)』と言う曲では、「あなたに会いたい」「あなたの声が聞きたい」と言う歌詞もあり、うまく行かなかった父への想いの裏腹な部分もあるのかもしれません。

一方、吉田拓郎さんの母は、当時、日本領土だった朝鮮で軍医として働いていた父の元に生まれ、裕福な生活をしておりました。朝鮮一のエリート女子学校である京城公立高等女学校を卒業後に、単身日本へ渡り、同志社大学に入学します。

お母さんは明治40年のお生まれの方ですので、大正時代かと思われます。その頃の日本での女性の大学への入学は 1913年(大正2年)に、やっと東北帝国大学(現・東北大学)が日本で初めて3人の女性の入学を許可したと言う時代でした。

そのような時代背景から、女子の大学の進学率はごくごく僅かなものだったと思われます。当時の大学は3年制で、卒業後、朝鮮の母校で英語の教師をしている中で、夫・正廣さんとお見合いで結婚されたのだそうです。

朝鮮にいる時に女の子二人と、男の子一人が生れますが、女の子の一人は、早逝されています。終戦の為、子供二人と夫と朝子さんの母と共に日本の夫の実家に戻り、一年後、吉田拓郎さんが生れます。

当時、35歳以上の出産にはリスクが大きく吉田拓郎さんを生むことに周囲からは反対されていたのだそうです。

吉田拓郎さんのお兄さんは、当時、鹿児島に出来たばかりのラ・サール高校に入学します。

校長先生の口利きで、お母さんは住み込みで舎監(寮などの管理監督を務める職員)となり、働きながら、独学で栄養学を学び、後に広島盲学校で栄養士として働きます。

その間、吉田拓郎さんは祖母に面倒を見てもらう事になりました。母は休みの時は家に戻り家族で過ごしたのだそうです。

吉田拓郎さんは、子供の頃は重い小児喘息を患っていて、学校も半分も行けないくらいだったそうで、具合が悪く寝ている吉田拓郎さんの横で、色々な話をしてくれたのだそうです。

いつも言われていたのは、自分に正直に生きなさい。と言う事だったと言います。ちょっと変わった子だったと言う吉田拓郎さんに母は、出来ない事は出来ないって言って自分に正直に生きなさい。

出来ない事を出来ると言って、無理に仲良くする必要はない。そんな風にお母さんはお話していたのだそうです。

吉田拓郎さんの曲の中に『流星』と言う曲があり、その中の一節に「正直だった悲しさがあるから」と言う歌詞があります。

そのお話を聞いてすぐに、その歌詞が思い浮かびました。『流星』は大好きな曲ですが、この正直だった悲しさと言うのが、何なのかを20代の頃からずっと思っていました。

吉田拓郎さんは、自分に正直に生きてきたと、恐らく自他ともに認めるところだと思います。あるインタビューで、正直に生きると言う母との約束は果たせていると語っておりました。


吉田拓郎若い頃!名曲『夏休み』とデビューまでの道程。父との確執

体の弱かった吉田拓郎さんは、一人で獅子奮闘して3人の子育てをする母を見て育ちます。

吉田拓郎さんは、小学2年生まで鹿児島市立谷山小学校に通います。その頃の担任の優しい先生・宮崎静子先生が、名曲『夏休み』の中のねえさん先生だったのだそうで、谷山小学校に、有志が寄付を募り2022年8月11日に『夏休み』の歌碑が建てられました。

 吉田拓郎さん一家に転機が起こったのは、小学校3年生の頃でした。母が広島県盲学校に勤める事になり鹿児島から母と姉と広島へ引っ越し、広島市立皆実小学校に転校しました。

鹿児島の小学校では、明るく、勉強もよくできた子供だったのだそうですが、広島の小学校にはなじめず、小児喘息も悪化します。

又、鹿児島弁も広島では伝わらず、しゃべる事も少なくなり、喘息の為、家で本を読む事が多くなったのだそうです。

吉田拓郎さんが初めて憧れた職業は、意外な事にお相撲さんだったそうです。

学校に行けず、ラジオから流れてくる音楽番組などと、相撲の中継を聞いていたそうで、顔も見た事も無い時津山と言う力士にファンレターを書いて返事をもらった事もあったそうです。

その頃、吉田拓郎さんのお父さんは単身で鹿児島に残り、県庁で忙しく働いていました。

年に1度か2度程度、広島で家族と会うのですが、姉と小学生だった吉田拓郎さんはみんなで住もうと懇願しましたが、仕事上の問題や、父と義母との関係で、子供が思う程簡単には行かなかったようです。

その辺りから、父との関係は希薄になっていったのかもしれません。

1959年、吉田拓郎さんは翠町中学校に入学します。公立の中学で、校内は荒れていたと言います。いじめにあったりもしたと言います。まだ体が弱く、学校も休みがちだったようです。

中学2年生の頃になると、姉と一緒にラジオの音楽番組に夢中になり、岩国の米軍基地からも流れてくるFEN(Far East Network)現・AFN (American Forces Network:アメリカ軍放送網)から流れてくる洋楽も聴いていました。

高校は進学校である県立皆実高校に入学しました。あまり成績が良いとは言えない吉田拓郎さんでしたが、お母さんが裏で動いたのではないか?と話をされていました。

実際に、教育関係者にコネを持っている方の様ですが、真相は解りません。

高校の入学祝に、母からウクレレをプレゼントされ、水を得た魚の様にメキメキと上達し、その頃には喘息も改善していたようです。

同時に写真部に入り、元々明るい性格だった吉田拓郎さんですから、早速、新しい友人も出来、仲の良い3人でトーン・ダイヤモンズと言うバンドの活動も行ってました。

この頃にボブ・ディランの音楽と出会い、スタイル・音楽性に大きな衝撃を受けました。

大学は、立教大学経済学部の試験を受ける為に上京しましたが、最初の国語の試験が難しすぎて絶望して、諦めてパチンコをして帰郷し、広島商科大学(現・広島修道大学)に入学します。

大学では軽音楽部に所属ますが、先輩との主従関係に辟易してすぐに辞めてしまい、大学でできた新しい友人と『バチェラーズ』と言うバンドを作り音楽活動も本格的になります。

その時、吉田拓郎さんはドラムスの担当だったそうです。R&Bのバンドで、地元のビアホールやジャズ喫茶などで人気を博します。

やがて、バチェラーズはコンサート(当時で言うリサイタル)を開くほどの人気となり、1965年の9月には、広島市平和記念館会議室で観客を満員にします。

自信満々のバチュラーズのメンバーで、東京でデビューしようと、有名だと言う理由で『渡辺プロ』にアポイントも無しに押し掛けます。

今なら(当時も?)門前払いも当たり前ですが、当時はそう言う若者がいっぱいいたのか?当時人気を博していた東京パンチョスと言うバンドのリーダーのチャーリー石黒さんと言う方が、話を聞いてくれたのだそうです。

その時、お茶を出してくれたのが、当時チャーリー石黒さんの付き人だった森進一さんだったそうです。有名になった時にバチュラーズのメンバーが気付いたのだそうです。

もちろん、それ以上の事もなく、トボトボと帰路につきます。地元に戻るとバンドも意気消沈してしまい、吉田拓郎さんはフォークソングを単独で歌い始め、コンテストに出始め、良い成績を修めだします。

コンテストの出場者の多くはフォークグループでしたが、吉田拓郎さんはソロで弾き語りを披露します。長髪に、よれよれのシャツ、デニムと言う姿に和製ボブ・ディランなんて記事になったりもしたようです。

バンドも活動も行っていて『ダウンタウンズ』と言うバンドも地元で人気を博し、コンテストでも、地方大会では優勝します。

その頃、既に広島の街を歩くと、「拓郎?」と声を掛けられるくらい有名だったようです。

度重なるデビュー直前まで行くのですが、当時の商業音楽の中で、レコード会社は売れるか?売れないか?という選択肢しかなく、リスクを取らなかったのかもしれません。

色々なアルバイトを熟し、デビューを夢見て、大学に休学届を出し、知人の千葉の実家のお寺に居候させてもらい、デモテープを持ち込む日々が続くも、うまく行きません。

デビューできないまま、吉田拓郎さんは、歌手を諦めて、少しでも音楽に関わる仕事をしようと、河合楽器の内定をもらい、大学生活を終えようとしていました。

時代はフォークソングブームの到来を告げる時代です。広島では吉田拓郎さんも関わっていた広島フォーク村と言うコンサートをきっかけに、思わぬプロへの道が開けました。


吉田拓郎若い頃!伝説の夏フェス。中津川フォークジャンボリー!

吉田拓郎さんは、デビューしたのはエリックレコードと言う会社でしたが、元々は教育教材の販売を行っていた会社で、売り出し方のノウハウが少なかったのかもしれません。

給料は一か月35000円(くらいでは?)で、吉田拓郎さんを東京進出のきっかけになった仲間の高輪のマンションの事務所に居候して、印税の契約も無しに、電話番などもしていたと言います。

何はともあれ、1970年6月『イメージの詩/マークII 』でデビューしました。どちらも吉田拓郎さんを代表するような曲でもありますが、何故”マークⅡ”かと言うと、

曲の中で別れた女性を奪っていった男性が、トヨタのコロナマークⅡに載っていたと言う話を聞いた事がありますが真偽の程は・・・。

デビュー前の1970年の3月から半年間居候をして、高円寺駅が最寄り駅の杉並区堀之内に引っ越しています。吉田拓郎さんのファンならピンと来るであろう『高円寺』の舞台ですね。

吉田拓郎さんは、自身で色々な放送局に出かけ、自分で仕事を取ってきて、出演していたようです。

一年くらいはそんな事を続けていましたが、200人から300人の小さなコンサート会場や、今で言うライブハウスで演奏を続けているうちに徐々に観客も増えて行きます。

エリックレコードも、ライブに吉田拓郎さんに内緒で、サクラを忍ばせて、トークを盛り上げたりする努力もしていたようです。

デビューから2年も経つと、フォークブームの中、筆頭となります。当時『ガロ』や『猫』、『六文銭』のフォークバンドのメンバーや、かまやつひろしさん、加川良さんらの繋がりも出来てきます。

その頃、1972年の1月にCBSソニーに移籍すると3月には『結婚しようよ』が大ヒットしますが、

その1年前の夏、1971年8月7日から9日間岐阜県中津川で行われた第3回全日本フォークジャンボリー(通称・中津川フォークジャンボリー)3万人近い人が集まったと言われる夏フェスの先駆けのようなイベントで、機材が壊れる中1時間半もの間、『人間なんて』を熱唱。

当時のアングラレコードクラブと言うレコード会社の代表格のシンガーソングライターだった岡林信康さんを筆頭とするシンガーソングライターへの、吉田拓郎さんエリックレコードを背負って出ていると言う対抗心もあったようです。

コール&レスポンスで、会場が一気に吉田拓郎さん側になり、その事でマスコミなどで大きな話題になり、今でもこのイベントは”伝説の・・・”と付くことが多いようです。

そんな事もあり、吉田拓郎と言う名前は、フォークソングのファンには知られていましたが、先述の『結婚しようよ』は、爆発的な売り上げとなり、又、それよりもアンダーグランドにあったフォークソングを表舞台に引っ張り出してきた曲だと思います。

それまでのフォークソングは、正直なところ暗い、重い、政治的、社会批判等の要素があり、もちろん吉田拓郎さんの曲にも一部そういう部分もありましたが、この曲は明るく、その当時の若者の心をつかむものになったのだと思います。


吉田拓郎若い頃!名曲『結婚しようよ』馴初めは、ボコボコにされて

1972年の1月に発表され大ヒットした『結婚しようよ』は、「僕の髪が肩までのびて、君と同じなったら、約束通り町の教会で結婚しよう」と言うはじまりで、

 その歌詞が、当時、まだ見合い結婚も多くや家と家との結びつきと言うような風潮が強い中、個人の自由さが大事だと感じさせてくれるフレーズだったのだと思います。

当時の男性の意識の中のプロポーズの言葉としては、かなり画期的な言葉として、若者に刺さりました。

そしてこの楽曲の通り、半年後の6月に長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子(よすみけいこ)さんと結婚式を挙げました。

四角佳子さんは16歳から西野バレー団(その当時の芸能事務所の奔りのような存在でした。)所属して、由美かおるさんや奈美悦子さんらと学び、その後、小室等さん率いる『六文銭』と言うフォークバンドで、ボーカルをされていた方です。

2人は結婚する一年前1971年5月、愛知県岡崎市のコンサート会場でお互いに出演者として出会います。

楽屋に四角佳子さんが挨拶に来ると、人見知りのところがある吉田拓郎さんは、ぞんざいに返事をする程度だったそうです。

一カ月後の初夏の東京で二人は、再び共演します。打ち上げの席で、酔っ払いの喧嘩の仲裁だったのか?ケンカを吹きかけられたのか?

吉田拓郎さんは四谷の路上でボコボコにされ、血を流している吉田拓郎さんを近くの深夜営業のスーパー(当時はコンビニエンスストアーはまだ日本に無かった。)に駆け込み、絆創膏やガーゼなどを買って、手当をしてくれたのだそうです。

激しく殴り合う男同士の喧嘩と、傷ついた吉田拓郎さんを見た19歳になったばかりの四角佳子さんは、ショックを受け、泣きじゃくりながら傷の手当をしていたのだそうです。

それまで、通り過ぎるように浮名を流していた吉田拓郎さんでしたが、泣きながら介抱してくれる四角佳子さんの姿に、一気に心を奪われてしまうのでした。

『結婚しようよ』の歌詞の様に、お花畑が出てくるような出会いでは無かった様ですが、この出会いから名曲が生れたのは、事実の様です。

無事、「結婚しようよ」よろしく結婚する事になった吉田拓郎さん。この後、大きなトラブルに巻き込まれる事件が起こります。

又、四角佳子さんとの結婚や、音楽業界の常識をひっくり返す事になる行動、オールナイトで行われるライブのあらましは後編で。

 

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