小田和正さんは何と言っても、オフコースの頃からの、独特の高音の美しい声が印象的なシンガーソングライターです。
私、moonが中学生の頃に、『さよなら』が大ヒットしておりました。
ちょうど今頃になると、「もう、終わりだね~。」と言うイントロはもとより、「さよなら、さよなら・・・」とリフレーンする切ないサビが頭の中に流れます。
さて、そんな小田和正さんの若い頃、結婚しているの?オフコースのメンバーって誰なんて事をまとめてみたいと思います。
小田和正若い頃。身長や高校。実家は薬屋さん。出会いは小3!
小田和正さん、本名も小田 和正(おだ かずまさ)です。1947年〈昭和22年〉9月20日生まれです。2024年10月現在は、なんと77歳ですね。
身長172cm、血液型はA型です。
出身は、神奈川県横浜市金沢区です。ご実家は金沢区にある『小田薬局』という薬屋さんです。
小田和正さんの実家は300平方メートル以上の豪邸で、父は信次さんといい、商店会の設立に貢献するなどをして藍綬褒章を受章している方です。
小田和正さんは二人兄弟の次男として生まれました。
小田和正さんは、「人生で大きな出来事と思うことを三つあげてください」と質問した時、その一つに、「母親と出会ったこと」と答えています。
小田和正さんの母親は自分の好きな事をやりなさい。と言い聞かせていたといい、父は、ご自身が学校に行けなかった境遇からか?学歴にうるさく言っていた様です。
小田和正さんのお兄さんは小田兵馬さんといい、ご実家の金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局を経営しておりました。
小田和正さんは関東学院六浦小学校、横浜市立八景小学校を経て、1960年、聖光学院中学校・高等学校に進学します。
小田和正さんは、中学受験では、栄光学園中学を第一希望として、進学塾に電車で通っていましたが、電車の中で、同じ中学を目指して勉強していた鈴木康博さんと出会います。
その時は、小田和正さんと鈴木康博さんとのその出会いが、後のオフコースになるとは、誰も予想できなかった事でしょう。
小田和正さんと鈴木康博さんが、出会ったのは、なんと小学校3年生の時の事でした。
小田和正の若い頃。中学受験の失敗、大学で仙台に。バンドは?
小田和正さんは、第一希望の栄光学園中学の受験に失敗してしまいますが、同じように鈴木康博さんも、受験に受からず、進んだ中高一貫校である聖光学院では中学・高校を通じて同級生でした。
しかし、高校2年生の時に、この聖光学院の学園祭『聖光祭』で、同じ同級生の地主道夫さん、須藤尊史さんの4人で、演奏したことが、音楽へのきっかけとなったのですから、人生は解りませんね。
高校の学園祭のバンドなんて、たくさんある訳ですし、もちろん、プロとして活動されるなんて事は、稀だと思います。
小田和正さんも、進学校に通い、当然のように、大学への進路を選びます。
小田和正さんは、千葉大学の医学部なども候補に上がりましたが、地主道夫さんと共に東北大学建築科に入学します。
一方、幼馴染の鈴木康博さんは東京工業大学に進み、須藤尊史さんは横浜市立大学、宮城県と神奈川県で4人はバラバラになります。
遠距離の中、鈴木康博さんは車に機材を詰め込み仙台でバンドの練習を続けました。
小田和正さんは、オフコースのメンバーと1969年7月20日、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)仙台地区予選に出て、全国大会に進みますが、
全国大会においては、1位は赤い鳥、オフコースは2位という結果でした。小田和正さんも含め、この大会で優勝して、音楽活動にけじめをつけるつもりでしたが、
二位に甘んじた事で、『ここでやめるわけにはいかない。』と心に火が付いたという事です。そしてプロへの道を歩き出しますが、
この大会から、何度かのメンバーの編成があり、冒頭に書いた「さよなら」が大ヒットしたのは、凡そ10年後の1979年でした。
小田和正の若い頃、オフコースのメンバーは?元メンバーは?
小田和正さんは、オフコースのボーカルであり、リーダーでした。オフコースのメンバーは初期から入れ替えはありましたが、1967年 から1989年までの22年間活動を続けました。
今も尚、CM等のタイアップ曲が時折流れます。
🔵そんなオフコースの元メンバーは、
★地主道夫さん(じぬし みちお) ギター担当
結成時のメンバー。聖光学院、東北大学工学部、早稲田大学理工学部卒業です。
1971年2月頃脱退後、竹中工務店に入社。『日刊ゲンダイ』(平成6年6月16日号)で「超売れっ子設計家」として取り上げられたこともあります。後に設計事務所を立ち上げます。
★須藤尊史さん(すどう たかふみ) ドラムス担当
結成時のメンバー。1965年脱退。高校3年時の聖光祭に小田・鈴木・地主とともにステージに立つ。卒業後横浜市立大学に進学します。
昭和シェル石油勤めのかたわらヨットマンとしても有名になります。
★小林和行さん(こばやし かずゆき)ベース担当
1970年10月頃加入、1972年5月19日脱退。小田・鈴木の聖光学院時代の後輩。加入当時、早稲田大学学生でその後、小田らの勧めで学業に戻る。
★吉田浩二さん(よしだ こうじ) コーラス担当
1972年5月13日加入、同年5月19日脱退。当時のオフコースのマネージャーで、第1回東京音楽祭出演のため助っ人として加入しました。
★鈴木康博さん(すずき やすひろ)1948年2月18日生まれ ボーカル・ギター担当
結成時のメンバー。1983年8月31日脱退。静岡県田方郡修善寺町(現:伊豆市)のご出身。
東京工業大学工学部卒業。小田和正さんとは対照的な男らしい詞と編曲にも大きな力を発揮してきたオフコースの職人的存在として活躍します。
🔵解散時のメンバーは?小田和正さんの他には
☆清水仁さん(しみず ひとし)、1950年11月25日生まれ 大阪府大阪市西成区出身。ベース・コーラス・ペダルシンセサイザー担当 1976年10月よりオフコースに参加し1979年8月1日正式に加入します。
☆大間ジローさん(おおま じろー)本名:大間仁世(おおま ひとせ)1954年5月14日生まれ、秋田県鹿角郡小坂町の出身です。 ドラムス担当です。1976年5月よりオフコースに参加後、1979年8月1日に加入します。
☆松尾一彦さん(まつお かずひこ)、1954年8月7日生まれ、秋田県山本郡八森町(現:八峰町)出身。ギター・ハーモニカ・コーラス・キーボード担当、1976年10月よりオフコースに参加後、1979年8月1日正式加入します。
この度、改めて見て、結構メンバーの入れ替えがあった事にちょっと驚きました。
それは、オフコースの生み出す楽曲が、常にハイレベルなクオリティーのモノばかりなので、変わった事を悟られなかったからではないでしょうか?
小田和正、若い頃。奥さんとは10年の交際の末極秘入籍?
やがて、ハイトーンで済んだ声で、美しいメロディの曲が次々とヒットしだします。
オフコースには長い下積み時代がありましたが、その後、『生まれ来る子供たちの為に』や『言葉にできない』などの息の長いヒット曲を生み出します。
小田和正さんは1986年にソロデビューしていますが、同時に1989年までオフコースとして活動しています。
交友関係の中から生まれ1985年に発表された『今だから』は、財津和夫さん、松任谷由実さん、小田和正さんで美しいハーモニーを奏でます。
さて、小田和正さんプライベートな情報は少なめですが、小田和正さんが結婚したのは1982年9月3日です。小田和正さんが35歳の頃かと思われます。
奥さんは6歳年下のようです。当時はまだオフコースとして活動していた頃で、人気も絶頂の頃です。
奥さんは新井恵子さんという方で、一般の方です。お二人は、子供の頃から知り合いだったらしいという事が言われています。
奥さんの新井恵子さんは音楽業界に籍をおいていました。凡そ10年間の交際期間があり、誰にも(お互いの両親にも?!)内緒で二人で入籍していたようです。
オフコースのファンクラブを立ち上げる時に、ファンクラブの会報を作る友人の手伝いをしていたあたりから、小田和正さんとのお付き合いが始まったものと思われています。
小田和正さんが、9月の結婚を待ち遠しく作った楽曲が1年前1981年の6月に発表された『I LOVE YOU』だといいます。
入籍は極秘でしたが、嬉しさを表現したかったのかもしれませんね。ただし、前の年の年末のジョンレノンの射殺事件なども念頭にあった曲だと言いますから、
ただ明るいだけの曲でもありません。
I LOVE YOUの中の『あゝ、早く9月になれば~♪I LOVE YOU~♬』と言う部分は、率直に結婚の事を歌っているいるようです。
小田和正さんは、子供が苦手で、子供を作ることは無かったようで、お子さんはおりません。
「町で大声ではしゃぐ子供が嫌いで、もし自分の子供が出来たらそんなことしない子供に育てる自信がないから、子供がいないんです」
しかし、『生まれ来る子供たちのために』と言う楽曲などは、とても子供が苦手な方とは思えませんが、責任感を強くお持ちだったのかもしれませんね。
以上、小田和正さんの若い頃と、オフコースのメンバー、結婚相手との馴初めについて調べてみました。
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